2020年。15年の時を経て、僕はひとつの扉を開こうとしている。
“その向こう側には、一体何があるのだろう?”
好奇心と探求心、
新しい冒険。
美食とは何か?
芸術とは何か?
その全ては、この15年間僕が毎日考え続けてきたことであるし、
もっと言えば、僕が19歳でこの世界に入ってから、
ひたすらに考え続け、そして、その度に打ちのめられ続けたことかもしれない。
一向に、出口は見えず、
扉の前にすら立つことが出来なかった。
フランス料理とは何か?を考え、
料理とは何か?を考え、
そして、最も重要な問いは、
僕にとって、表現とは何か?という問いだ。
・・・
料理でメシを喰う為に、僕はソレに専念せざるを得なかった・・・
料理と向き合おうとすればするほどに、
ソレは、僕から遠ざかっていくように感じた。
そして、僕は封印していた絵画をはじめ、
陶芸の世界にも足を踏み入れた。
僕の中で、全てのツールは重なり、
そこには、ただ・・自分自身の姿が在った。
そう、これでいいんだ。
全てのものが、僕の手元に在る。
遠ざけることもなく、
近づけることもなく、
僕の日常の中に在るものとなった。
僕が強く興味を示し、
心打たれるもの・・・
色であれ、造形であれ、味であれ、
何であれ、
そこに求めるものは、
自然と人間が精神的な繋がりを見せる、
一瞬の表情なのではないか?
パレットの上で原色同士が混ざり合う・・その手前を、
ナイフでそっとキャンバスになぞることで生まれる景色。
自然に曲線を描いた土が魅せる造形。
窯の中で鉱物が溶け合い、発色し、生み出す色彩。
天然の食材が様々なエネルギーによって、新しい命が吹き込まれ、
香りと味わいに変化し、出逢うはずの無かったものとの出会いにより、
新たな表情を浮かべる瞬間。
僕の中では、全ての感動は、同一線上に在る。
表現のスタイルに特定の制約を設けることは主義ではない。
油彩で厚塗りもすれば、敢えて水彩のような表情の画面も創る。
磁器で無機質なエッジの効いた造形も作れば、
素朴な素材で、ざっくりとした土味のある表現もする。
ただ、料理においては少しだけ違う。
30年という時間がそうさせているのだろうか?
僕が見たいもの、作りたいものの“今”は、
薪火による変化なのかもしれない。
当然、今がそうであるからといって、
この先が、どうであるかは分からない。
ここで少しだけ薪火の話をすると、
薪火とは、蒸気を伴った炎である。
そして、中間地点では炭同様の熱量を発し、
終点間際で非常に柔らかな熱源となる。
着火時から終焉までの時間経過の中で、
様々な状態変化が起き、それぞれの特徴と熱量がある熱源である。
また、薪の種類や木の部位によっても特徴が変わる。
油分が多い木、木質が柔らかいもの、目が詰まって硬いもの。
当然、出る炎の大きさ、長さ、熱量も違う。
それらを総合して言えることは、料理で使用する熱源の中で、
最も“不安定”であるということだ。
様々な“ムラ”を抱え、不均一な状態を備えているのが薪火である。
何も考えず、ただ雰囲気だけで使用している料理人も多いのも頷ける。
何故、頷けるかというと、それだけ“なんとなく美味しそう”という
幻想を抱かせるだけの力が薪火にはあるからだろう。
ただ、僕が30年料理に携わり、今、この熱源に手を出すのには、
それなりの“ワケ”がある。
それは、表現の根本の中に眠る“本能”を突き動かすことができる熱源だと感じたからだ。
あのメラメラと焚き付き、大きな炎を上げ、
大きな音を立てて、どんどんと周りの物質を飲み込んでいく姿は、
まるで生き物のように恐ろしい。
その後、ピークを迎えた薪は、
ジッと静かに、その熱エネルギーを放出する・・・
・・・
では、炭ではダメなのか?という疑問を感じる人もいるだろう。
当然、炭は素晴らしい。
逆に言えば、素晴らし過ぎる・・・
優等生の炭に比べ、薪は出来が悪い・・・まるで子供の頃の自分を見ているようだ。
出来の良い炭には、当然需要が沢山あるし、安定感や使い勝手、温度の高さ、
何を比べても、炭には敵わない。
もしかしたら、だからコソ薪に惹かれるのかもしれない。
僕は、不安定で不均一なものに惹かれる主義。
優秀なものは、そのままで優秀なのです。
北海道という田舎で、その土地の薪を使い、
僕は、そこに在る素材を料理に変える。
ただの火が、ただの火ではなくなる。
原始時代の人類が初めて発見し、体験した調理法。
まさに“炎芸術”である。
薪火とは、
薪美であって、
炎が付き動かすものの中に、
太古の人類の本能が眠っているように思うのです。